人って何の為に生きてるんでしょうね?
だって、どうせ最後は死ぬんですよ?
どんな社会的地位もどんなにお金があっても、どんな友達が多くてもどれだけ幸せになっても。あの世があるとしたら、何一つ持って行けない。
じゃあ、僕たちは何の為に頑張って生きてる。
って考えた時に、今が楽しければ良いんじゃないかって極論を考えてしまう。
例え、それが一瞬の快楽だとしても、僕たちはそれを求めているのではないか。
それは、快楽と言っても、その後に自分を自分で苦しめるような快楽だったら、あまり良い傾向とは言えない。
でも、仕事終わりのお酒が美味しいとかタバコがうまいとかだったら、許せるような気持ちになってしまう。
前に挙げたブログでこの世は地獄だ!って僕が言ったことがあります。
命を存続させる為には、命を頂かないといけない。
誰かが生きることは何かの命がこの世からなくなることだと思う。
じゃあ、何故こんな不毛な世の中になってしまったのだろう。
誰かが幸せになることは別の誰かが不幸になることなのだろうか?
確かに、異性でも同性でも一人の人を同時に好きになったとする。
そしたら、どちらかが失恋しないと恋は始まらない。
これは、一夫多妻制じゃないとだからとか人の社会はお互い番い(つがい)じゃないといけない世の中だからとかを言いたい訳じゃない。
その人の一番になりたいとしても、既に一番が居る状態では、きっとその人は本当の意味で幸せになれないんじゃないか?
だって、その人の一番になりたい訳だから。
僕は人の不幸の上では幸せな花は咲かないを理念としている。
ただ、世の中そうなのかと言われたら、違う気がする。
この世は誰かの犠牲の上に成り立っているのではないか?
日本だって、日本以外の国の資本主義国家は競争をさせているではないか?
その競争に負けたら、幸せになるどころか幸せの権利自体なくなるのではないか?
前に椅子って記事を挙げたことがあるが、全ての人に椅子が用意されている訳じゃない。
それでは、椅子に座れない人は一生幸せになれないのでは?と思ってしまう。
だって、敢えて椅子を譲る人もいるのだから。
周りから見たら馬鹿だなあと思われるかも知れないが、椅子を譲れる程、人間性が豊かなのではないか?
そういった優しい人が損をする世の中にはなって欲しくない。
ただ、世の中は優しい人や立場が弱い人が淘汰される仕組みにある。
強い者が弱い者から奪い、弱い者は更に弱い者から奪う。
そうなると、一番弱い者はこの世から居なくなる選択肢しかなくなる。
それが、絶滅だったり自殺者だったりするのではないか?
自ら死を選ぶのは悲しいことだ。
しかし、それしか選択肢がなかったら、自ら命を差し出すしかない。
僕は何を食べる時でも、感謝するようにしている。
普通とは程遠いが生きてることにも感謝をしている。
だって、僕が今こうやって生きてる時間にも、沢山の命が僕の為に失われているからだ。
だから、せっかく生まれてきたのだから、生まれて来て良かったと一瞬でも思って欲しい。
それが、一瞬の快楽だとしても・・・
生まれるって死ぬことと同義だと思う。
いつか、この世界には何もなくなる。
僕はそれを因果応報と呼んでいる。
この残酷な社会で生き物皆が幸せになれないのなら、あっても意味がないと思う。
せめて、次の世界では皆が幸せになれることを願って止まない。
それを人は天国と呼んでいるのではないか?
悪いことをして、地獄に落ちると言うが、地獄とは正にこの世界だと思う。
死を恐れるのは、生き物としての本能だが、それこそ僕たちにインプットされた先入観で。本当は死んだ方が幸せになれるのではないか?
あの世なんて僕は信じないけど、天国がもしあるのならば、死こそ救いだと思う。
この世が地獄であの世が天国なら一体何故僕たちは生まれてきたのだろう?
死ぬまで生きる。
それが、僕たちが与えられた試練であり、天国に行く条件な気がしてならない。