嫌だと言う勇気

なんでも肯定的に捉えて、前向きに行動することが良いと思われてますが...

 

果たしてそうでしょうか?

 

これは、僕が学生に特に言いたいことです。

 

なんで、学校に行かないといけないの?

 

なんで、友だちが居ないと人として劣ってるように見えるの?

 

なんで、勉強しないといけないの?

 

などなど、、、

 

学生の生活っていうんですか。

 

兎に角、受動的なんですね。

 

人がやれと言われていることをしているに過ぎない。

 

しかも、その「人」っていうのは。

親だったり先生だったりしている訳です。

 

もっと言ったら、その人って国そのものなんですよね。

 

学生=子供に国の思想を植え付けている。

 

本当だったら、自由に生きろじゃないですけど。

一人一人が自分で考えて生きろが通常の考え方なんですけどね。

 

それじゃあ、人の道を踏み外したりする人がいるのかなぁなんて思う。

 

それに、子供に自由に生きろなんて言っても。

何が自由なのか分からないし、どう生きたらいいのかなんてもっと分からない。

 

だから、学校や社会が世の中の常識=普通を教えている。

 

ただね、全員に全員が同じ教育をしたら話は別なんですよ。

 

一人一人が違う人間で違う考え方を持っている。

 

そんな中で同じ教育をしたら、皆同じ考え方になってしまうし一つの考え方しか出来なくなってしまう。

 

僕がこの文章のタイトルにした。

嫌だと言う勇気は、正にここに通じているのですね。

 

 やりたくないことはやらなくていい。

 

間違っていると思うことはしなくていい。

 

一緒に居たくない人とは居なくていい。

 

そういった人間として、自然に出てくる感情を大切にして欲しい。

 

寧ろ、教育っていうものは。

この嫌だという感情を生み出す為にあると僕は思う。

 

好きだと思い込んでたものが本当は嫌いだったりすることだって、往々にしてある。

 

それを俗に刷り込みと言う。

 

この刷り込みは教育に因るところが大きいが、自分自身で刷り込んでしまうこともある。

 

僕が何を言いたいかと言うと、自分の気持ちに素直に正直になって欲しい。

 

また、その自分の気持ちに気付いて欲しい。

 

教育とは教え育てると書く。

 

それでは、何を誰から教わるか。

 

勿論、人生の先輩である先人から人生を教わる。

 

ただ、僕は言いたい。

 

勉強は受動的ではなく、能動的に行って欲しい。

 

常に世の中に対して。

何故?何故?と疑問を持ち、自分なりの答えを探して欲しい。

 

間違っててもいい。

それがいつか自分なりの問いの答えになるから。

 

人生は誰でも一度だけ!

 

たった一度の人生をあなたが作って欲しい。

あなた以外の他の誰でもない人生を送って欲しい。

 

そして、好きなことを一生懸命に楽しんで生きられる人生を生きて欲しい。

 

今は子供でもいつか気付く時が来ると思う。

 

この全てが揃っている世界という材料を使って、あなたの世界を作る。

 

それが人生の目的だということを。

 

この世界の嫌だに気付けた時、あなたは自分の本当のやりたいことに気付くかも知れない。

 

日本人は世界的に見ても特にノーと言えない種族である。

 

しかし、勇気を持って言って欲しい。嫌だ!と。