なんか世の中って、手足が不自由だとか体の部分が欠損していると可哀想だとか思ってませんか?
僕はそうは思わない。
だって、自分が可哀想かどうかを決めるのは自分自身だと思うからだ。
反対に周りから幸せそうに見えても、可哀想な人も居る。
それじゃあ、可哀想ってなんだろうか。
ググってみるね!
可哀想
〘形動〙 (「そう」は接尾語) あわれで、人の同情をさそうようなさま。 ふびんなさま。
とある。
これって、どういうことかというと。
可哀想って、他人が決めているということ。
だから、本人が可哀想だと思っていないとしても周りの同情を誘ったら可哀想なのだ。
次に人をあわれむ気持ちの「同情」をググってみよう。
【同情】
《名・ス自》他人の気持、特に苦悩を、自分のことのように親身(しんみ)になって共に感じること。かわいそうに思うこと。あわれみ。おもいやり。
とある。
つまり、人を可哀想と思う気持ちって思い遣りから来てるとのことだ。
でも、かの「五体不満足」を執筆したことで有名な乙武洋匡(おとたけ ひろただ)さんは本の中で。
「不便ですが、不幸ではありません。」と語っている。
僕が言いたいのはここにある。
僕にはこの乙武洋匡さんの言葉が、「可哀想に思うかも知れませんが、同情される必要はありません。」と聞こえて仕方がない。
可哀想、同情とは自分より立場の弱い人にすることであり人を下に見る行為である。
僕はそこが納得いかない部分であり、違和感を感じてしまう部分でもある。
僕はどちらかというと底辺に近い人間だと思っているのですが...
それを見て可哀想と思われているとしたら、話が違ってくる。
僕は困っていることが沢山あるかも知れないが、人に同情される筋合いはないと思っている。
同情はタダなんですよ。
だから、手を差し伸べられたら助けて貰うかも知れない。
ただ、自分のことくらいは自分でしたい気持ちはある。
だから、僕は可哀想ではない。
まとめるが、可哀想とか同情とかは自分より立場の弱い人にする行為であり。要するにあわれみである。
自分が可哀想かどうかは自分の心が判断することである。
だから、周りの人は同情とかではなく。
暖かい目線(普通)で見守って欲しい。
同情やあわれみではなく、気遣いが大切だと僕は思うから。